青蓮院ブログ

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6月護摩のお話

6月護摩のお話

今日は蒸しますね。満月も望めません。暑い護摩になると思いますが、皆さん頑張って下さい。

お釈迦様が説かれた中に、四句八苦ということばがあります。
生、老、病、死、の4つの苦しみの他に、あと4つあります。

その中の一つに「求不得苦」があります。

求めても、得られない苦しみですね。

我々の日々はほとんどこの「求不得苦」であるといっても過言ではないでしょう。
我々は欲望のかたまりですから、生きている限り、次から次へと求め続けています。

ああしたい。こうしたい。ああなりたい。あれが食べたい。あれが欲しい。際限もない欲求。
求めて、求めているのですが、実際にそのことを得ることは、なかなか難しいです。
求めても、得られないことがどんなに多いでしょうか。大きな苦しみです。

求めることに、こだわるほど、得られない苦しみも大きなものがあります。

マツダ自動車で、たくさんの人を殺傷した犯人の心の中はどうなっていたのでしょうか。恐らく
彼は常に欲求不満のかたまりだったのでしょう。その上孤独でだれとも心を許して話し合える人がいなかったと思われます。
彼がもし、仏教を信じ、お不動様や、阿弥陀様に手を合わせる人であったら、犯行に及ぶ前に
こんなことをして良いのかと、自省の心が働いたと思います。

我々は常に「求不得苦」の苦しみを味わっていますが、一線を越えてまで暴挙にでることはありません。彼の特殊な心の状況がそうさせたのでしょう。

しかし我々も常に多かれ少なかれ、この苦しみを克服しきれない場合があります。
人を殺すことはありませんが、言い争いや、不満をあたりに撒き散らしたり、小さい子供がおもちゃを買ってもらえないで、泣き喚くに似たことを大人もやっていると思います。

それでは仏教ではこのことにどのように対処しているのでしょうか。

人は全て欲望のかたまりですが、その欲望に「とらわれるな」と説いています。

そして出来るだけ、その欲を自分以外の人のためになるように向けることが、この苦しみから開放され、喜びとなると、説いています。

欲は捨てたり、封じ込めることはないと思います。
欲は大いに膨らませ、出来るだけ人の為になる欲に近づけて、そして、その欲が満たされないときは、あまりこだわらないことですね。

私は、そのような時、次のように「つぶやく」ことにしています。

「かまわない」と。

自分の思い通りにならない場面に遭遇した時、「それでかまわない」と口の中でつぶやいて見るのですね。

魔法のようにこだわりから開放されます。

どうぞ試してみてください。

カテゴリ: 門主のお話 | 2010年06月26日 | コメント(0) | No Trackbacks

5月護摩のお話

5月も末なのに、肌寒く不順な天候が続いていますね。

まずARMS DOWN の署名にご賛同ご協力いただきありがとうございました。

WCRP 世界仏教者平和会議が世界の軍事費の  10%を削減して、そのお金を世界の貧困と飢餓の撲滅にあてようと呼びかけています。
 
天台宗では半田座主が署名し、全国の天台宗の寺院が檀信徒に呼びかけているところです。

昨日、宗内の近所のお寺で代々親しくしている住職さんのお葬式がありました。
私より5歳も若く(63歳)遷化され、驚きと悲しみ、悲嘆の極致でした。

10年前に癌が見つかり、治療をしてこられて、全く普通に活動されていたのですが、最近再発されて急に
ご容態が悪化していたのです。20日に虫の知らせか、お見舞いに行きました。

そのお寺は法住寺さんです。後白河法王をお祀りし、身代わり不動明王で有名です。ご住職は「いまよう」
の復興に勤められました。20日にお見舞いした時は、5月2日には壇ノ浦の赤間神社の先帝祭(40万人の
人出だそうです)で今様と天台声明を奉納をされたお話を元気にお聞きすることができましたのに、
24日に訃報に接するとは。本当に信じられません。後でご遺族に伺ったところでは、酸素ボンベを使い
車椅子で高台の拝殿までいかれたそうですが立派に法要をお勤めされたそうです。

この7〜8年で、立派な不動堂の建替え。庫裏の大修理。他数々の事業を息つく暇もないほどで完遂されました。

恐らく最後の十年で思い残すことのないまでに頑張られたのだと思います。

そして全く手の届かないところへ突然と遷化されました。人の命のはかなさ、無常を感じます。

仏教ではまさにこの「無常」を説いています。

無常とは常(つね)で無いということです。
人は今の瞬間瞬間に死んで、瞬間瞬間に新しく生まれている。つまり今日と同じ様に明日があり、
明後日があり、一年があり、来年があるのでは無い。

常(つね)にあり続けるものは無いのです。
我々はともすれば、今日の延長線に同じ様に明日がある。と思っています。本当は違うのですね。
今日出来なくても、明日やれば良いと、日伸ばしにしてしまうことが良くあります。
本当は常に同じ様に明日は無いのです。
ですからこの一刻一刻を大切に、いただいた命を生かしていかなければと思います。

良く死んだつもりで頑張れとか、死にものぐるいで頑張れとか、言葉にはいいますが、
割と軽く使われているように思います。

無常。今と同じ様に明日が繋がっていないということを、深く深く自覚して、
今を、つまりこの一刻一刻を大切に生きていくことなんだ。と改めて気づかされました。


カテゴリ: 門主のお話 | 2010年05月28日 | コメント(1) | No Trackbacks

4月護摩のお話

4月護摩のお話
久しぶりの好天快晴。今夜の満月はすばらしいと思います。満月に向かってお不動様を感じて念じてください。

ARMS DOWN の全世界共通署名キャンペーンの署名を呼びかけました。
核兵器の廃絶を! そして世界の軍事費の10パーセント(13兆円)を削減して、国連の貧困と飢餓の撲滅のミレニアム開発目標の達成に向けよう!というキャンペーンで本年9月25日まで世界中に5千万人の署名を呼びかけています。

天台宗では過日半田座主が署名しました。天台宗では今、宗内全国の寺院で署名活動中です。
1枚に10名の方が協力して署名し、天台宗では纏めて国連に送付し、安保理事国、各国元首、各国国会議員に提出されます。

小沢さんが警察審査会で起訴相当となりました。鳩山さんは不起訴とはなりましたが、ご両人とも、
ご自身は全く知らないと主張されています。

小沢さんで確か4億円。鳩山さんが5億9千万円のお金の受け取りに関して全て会計責任者の判断で行われ、自分は全く知らないと主張されていますが、このような大金がご両人の全く知らないところで動く訳がないと考えるのが普通の感覚でしょう。
誰もがご両人は知らない訳がないと思っています。

つまり小沢さんも鳩山さんも、知らないと言い通せば本人には罪が及ばない法律を利用している訳で、簡単に言えば嘘をついている訳です。

仏教では嘘をついてはいけない。これを一番大きな戒律としています。人間としての尊厳の根本ともいえるものです。
自分に正直であることが、いかに大切であるか。しかしまた一方で非常に難しいことでもあるのですね。

私は一般の凡人はともかく、国を代表し、国のリーダーたるエリートは、自らを厳しく律し、人々の指導者にふさわしい人であるべきと思います。
指導者が大嘘つきであれば、国全体への影響ははかり知れません。
また彼の云うことに心から従うものは居なくなるでしょう。

民主党の支持率が急速に落ち込んでいることが如実にこれを物語っていますよね。

我々もこのことを他人事とせず、常に自分を偽らず、自分の気持ちに率直であって、なお且つ人への深い思いやりを持ちたいと思います。

■ツイッターを始めました■
http://twitter.com/shoreninjiko

カテゴリ: 門主のお話 | 2010年04月28日 | コメント(3) | No Trackbacks

3月護摩のお話

2月並の寒い日で、今朝は季節はずれの雪化粧となりました。今夜は快晴ですから、満月がすばらしいと思います。
是非満月をご覧になって、不動明王を感得して下さい。

2月のお話に引き続いて、門前の青蓮院のクスノキについてお話したいと思います。
2月のお話は電線地中化のことでした。

ヨーロッパの古都の場合、古都全域がほとんど電線は地中化されています。
つまり工事費をあまりかけていないと思われます。

彼等は電線をそのまま直に埋めていますが、日本では、法令によって頑丈な共同溝や電線用のコンクリート
のトンネルを作っています。そのため非常に工事費が高額となり、直ぐに億単位の工事となり、電線地中化は遅々として進みません。その上、トランスを入れる大きな鉄製の箱が歩道にのさばっています。
ヨーロッパにはこれが見当たりません。

ヨーロッパで出来るものがなぜ日本で出来ないのでしょう。
日本は地震が多いからでしょうか?

大地震がきたら、電柱でも、地中でも被害に変わりはないと思います。

日本は今なにかと規則が「がんじがらめ」になってきていませんか?

関西電力さんとはまだその後、話は進んでいません。

今日は門前の神宮道(じんぐうみち)を年に多くて2〜3回交通規制をすることのお話です。

青蓮院のクスノキは 京都市の登録天然記念物に指定されている文化財ですが、クスノキは実は粘りがなくもろいため、折れやすいのです。
そのため普段は折れたりしないのですが、強風や、大雪に弱いのです。

木の高さが20メートル程ありますので、大きな枝が折れて落下するとかなり危険なので、警察にお願いして交通規制をしてもらおうと考えました。ところがこれが全く受け入れてくれないのです。

京都を直撃する台風や、大雪は年に一度あるかないかなので、もし落下して人や車に被害が発生することを考えれば1〜2日交通規制となっても、ご通行の方に多大なご迷惑がかかるとは思えません。

むしろこの木を管理するものとしては、万が一折れた木でお怪我や事故が発生することを防止しなければなりません。

2年間かけて、警察、京都市の道路管理者、京都市の文化財保存課の3者がやっと一堂にお集まりいただき、私から改めて要望いたしました。

ところが警察の対応は以下の2点の主張を繰り返し、しかも矛盾に満ちた回答でした。

第一。警察は道路上の上空に出張ったものは、そのものの価値がどんなものかとは全く関係なく、障害物として撤去を命じることが出来る。

第二。さし迫った危険が発生していなければ、道路の交通規制はできない。

このクスノキは東山の古都の景観の大切な要素となっており、そのまま京都市の風致上の保存の条件になっています。
樹齢は寺の伝えでは親鸞聖人のお手植えと云え700年余り、専門家の鑑定でも4〜500年は下らないと云われています。
そして多くの文化人がこの木を題材に芸術作品を制作していらっしゃいます。

警察はそのような価値を全く認めません。まるでアルカイダが敦煌の石仏を破壊したように、単なる障害物として切ることを命じることが出来ると、平然と言い切りました。

次に「さし迫った」危険とは、台風が直撃しそうだとか、大雪になりそうだ等の天気予報では、「さし迫った」に該当しないのです。
暴風雨が荒れ狂い、まさに枝がめりめりと裂けて落下寸前になった状態を、「さし迫った」というのだとの説明でした。

私はその時はもう手遅れだと思いました。

警察はやはり人が死ななければ動かないのです。

これから先がさらに不可思議な議論でした。

さし迫っているか、いないかの判断は警察側にあるのなら、その危険が発生して人が被害を受けた場合は
その判断に誤りがあったのだから、警察が責任をとっていただけるのですねと、私は質問しました。

それに対する答えは、責任はないとの答えでした。

それは、道路上の上空に張り出していることが、そもそも違法だからだとのことです。
いつでも違法なものの撤去を命じることができるから、そのような時は撤去を命じるとの回答でした。

私は歴史や文化的価値を全く認めないこの不毛な論理を展開する警察と、この会合で議論をすることのむなしさをひしひしと感じました。私は年に1〜2度の交通規制をしない理由を、自分達の法令を唯一絶対と信じて、それ以外の判断を頑なに拒む警察の体質に憤りを禁じ得ませんでした。
もう日本は終わっていると思いました。

私はその場で云いました。

道路上の違法な木と判断しているのなら、直ちに撤去の命令を発して下さいと。

しかし私はその命令には絶対に従いません。そして行政措置への不服申し立てを裁判所に提訴すると同時に、全国の京都を愛する方々に呼びかけて、撤去命令を出す警察と闘う大きな運動を展開します。
と云いました。

私は今日のお護摩で、皆様の諸願成就を強く念じてまいりますが、
この問題についても必ず解決するべく、皆様と共にお不動様のお力をいただき成就を目指していく決心です。

最近日本はどうなったのか、とか、何かおかしい とか 良く耳にします。

おかしい おかしい では 私はいつまでもそのままか、ますますおかしくなっていくと思います。

一つ一つおかしい ことをつぶしていきたいと思います。お不動様の信仰の力によって。

勿論そのことが、ただむやみにエゴを主張することにならないよう常に自省して行かなければと思っています。

最後になりましたが、3月の半ばからツイッター始めました。 ユーザー名 shoreninjiko です。

http://twitter.com/shoreninjiko

見てくださればうれしいです。

カテゴリ: 門主のお話 | 2010年03月30日 | コメント(1) | No Trackbacks

2月護摩のお話

 寒い日が続いていますが、次回は3月30日の満月ですから、今回が、寒さの中の護摩の最後ですね。
 
 今日は3人の方を、通算60回の月護摩参拝で表彰いたしました。

 継続すること、繰り返し良い事を願うことの大切さをお話ししました。

2月護摩のお話。

 青蓮院の書院(華頂殿)に、森本白汀さんが奉納された、伝教大師最澄のお言葉を記した屏風があります。

 「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。故に古人の言く、径寸十枚、是れ国宝に非ず。一隅を照らす、此れ則ち国宝なり」
 
 最澄の請願書である『山家学生式』の冒頭の文章です。

 国の宝とは何か。宝とは道心、すなわち仏道を求める心である。仏を目指す良い行いをする心を持っている人を国宝というのだ。金貨や玉といった財宝は、国の宝ではない。
 人は様々な関わりを周囲の人々の中にもっている。自分をとりまく周囲を明るく照らしていこう。
自分の最善を尽くして、人のためになるような人こそ、国の宝である。
 
 最澄は、全ての人が持分を尽くしていけば、国は仏国土となって栄えると説いています。

 また指導的な立場の人は、道心をもって、出来るだけ広く、遠くまで照らして欲しい。
 そしてそのような人が国の宝物であり、そのような人になることを目指そう。と説きました。

 自民党の総理大臣が、次々と変わり、人々は民主党に期待を寄せましたが、今多くの人々が失望しています。

 今こそ、最澄が言う道心ある指導者、国の宝とも言うべき指導者が渇望されていると思います。

 青蓮院の門前にクスノキの大木が5本あります。
京都市の登録天然記念物に指定されていますが、その石垣の上に、寺の中に電気を引き込むための木製の電柱があります。
 去年のある日、関西電力の担当の方が来られて、この木製の電柱が大分傷んできたので、コンクリート製のものに換えたい。との申し出でした。

 私は景観を損なうので、前々からお願いしていた、門前道路の電線地中化を是非検討して欲しい。と提案しました。

 私は何度か、ヨーロッパへ旅行しましたが、ウイーンや、プラハ、等の旧市街には一本の電柱もありません。
細い路地裏まで徹底しています。
 また、日本では電線地中化した道路では、かなり大きな鉄製の箱が、一定間隔で置かれます。

 そして驚くことには、ヨーロッパの旧市街には、この鉄製の箱が無いのです。
 日本では電線地中化に莫大な費用がかかります。
私は日本のやり方が何か、根本的におかしいのではないかと思っていました。

 その関電の担当者は私に会う前に、上に述べた書院の最澄の屏風を見て、息子さんが比叡山中学に入学して、学校に行ったとき、この同じ言葉が掲げられていたので、関心があった。
 この言葉の意味はどういうことか教えて下さいとのことでした。

 私はこの時とばかり、この意味は、貴方がご自分の仕事に最善を尽くすことです。
 そしてその最善を尽くす行いによって世の中のためになることです。
 クスノキの石垣の上の電柱は、コンクリートの電柱に換えるのでなく、ヨーロッパと同じ様な電線の地中化を実現することです。とお話ししました。

その後紆余曲折はあったのですが、京都市さんを交えて、このことで会合をもつことになっています。



カテゴリ: 門主のお話 | 2010年02月14日 | コメント(2) | No Trackbacks

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